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見えることの限界 ー馬場健太郎、ティル・ナ・ノーグギャラリー個展

March 27, 2017

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見えることの限界 ー馬場健太郎、ティル・ナ・ノーグギャラリー個展

「inter~ for creative](人形町ヴィジョンズから毎月1回発行されるメールマガジン)に掲載

「見ることの誘惑」第五十回 早見 堯

馬場健太郎「ハルガスミ」

  2015年 58×58cm 油彩 エマルジョンキャンバス

  ティル・ナ・ノーグギャラリー 2016年10月の個展で展示 東京

画面の周縁から描く。だから、焦点をあわせる中心ができない。
これが、馬場健太郎の絵画に一貫して見られる特徴だ。

キャリアの最初のころの「FEFE NAA EFE」(1994年)では、多数多様な色彩の線が縦横に交差している。
線が繰り返されて画面全体が一つになろうとしている。見る者に焦点をあわさせない。とらえどころがないのだ。だから、絵画が見る者の視野を一挙におおい尽くしてしまう。

2年後の絵画では、1994年の「三つの窓」でオールオーヴァーに展開されている線に秩序をあたえていたような矩形はなくなる。
色彩が融合し、線が消えた初期の秀作「黄色い太陽」が描かれたのは1996年だ。

2年間で、色彩と線の絵画から、色彩や形態を判別できない色彩によるフィールド(ここでつかわれている「フィールド」は、三次元的な奥行きのなかで「図」が「地」から分節されて現れる「形」とは異なる「領域」や「場」を意味している)の絵画へと移行した。
線を画面の横に並べて繰り返して描くことから、画面の上層と下層に重ねて描くことへの展開でもあった。

作家としての絵画の独自性が、急速にできあがっていることに驚かされる。
それにともなって、とらえどころのなさや、見る者の視野をおおい尽くす特徴は、さらに強くなっている。

 

色彩と形態は絵画をかたちづくる基本だ。画家は描くことによって色彩と形態をコントロールする。色彩と形態は絵画の基本であると同時に、目に見えるものの基本でもあるからだ。

しかし、馬場健太郎は、区別されれば異なる色彩として認識できる色彩を融合させ、形態に展開するはずの線を消してしまう。

2015年の正方形の絵画「ハルガスミ」が典型的だ。色彩と形態は混沌として、とりとめのない深みが見る者の視野をおおう。
そこに、かすかな燦めきや、おぼろげな光の漂いが現れる。融合させられたり消されたりした色彩や形態の亡霊だろうか。
1996年の「黄色い太陽」と20年後の「ハルガスミ」とを比較してみるのはとても興味深い。

 

けれども、画面を見渡していると、油絵の具の盛り上がりやかすれなどの、いわゆる油絵の具の粘稠性が生み出す物質感を感じさせられる。
こうした物質感は、今見ているこの画面が油絵の具という「物質」で「描かれた」のだということをあらためて想いおこさせるのだ。

 

現在、東京の国立新美術館で開催中の草間彌生の1960年の正方形の画面の秀作「パシフィック・オーシャン」(東京都美術館収蔵)では、離れて見たときのオールオーヴァーに繰り返されている網目は、近づくと油絵の具のストロークがつくりだす絵の具の盛り上がりやかすれをいろいろなところに見いだすことができる。
一様に平面的に繰り返されるように見える網目は、同時に絵の具という物質をコントロールしながら曲線を描いているときの草間彌生の息づかいと情動などの臨場感を感じさせられるのである(草間彌「わが永遠の魂」展 国立新美術館)。

 

ジャクソン・ポロックのオールオーヴァーの時期の絵画でも同じだ。
ポロックはパブロ・ピカソの1920年代のシュルレアリスムの力動感あふれるオートマティスムをとりいれた絵画を、ピカソの分析的キュビスムの時期の絵画の直線を曲線に変えて、1947年から1950年までのオールオーヴァーの時期の絵画を制作したのだ。
だから、オールオーヴァーの絵画には、同時に、それとは異質な、シュルレリスム風な混沌と分析的キュビスム風な秩序とが重なって交錯している。
丸山圭三郎が解釈し直してからよく使われるようになった言葉をもちだせば、カオスモス(カオス=混沌、コスモス=秩序)の運動ということになる。
異質なものの現在進行形の葛藤の現場、それが、ポロックの絵画なのだと思う。わたしは、そうしたところに、画家の切迫した臨場感を感じるのだ。

馬場健太郎の絵画も、草間彌生やポロックと同じような制作現場の臨場感とカオスモスの運動を感じさせられる。
馬場自身も描いているさなかの油絵の具の物質感にいまさらのように魅せられたことを、制作中の「pieta」(2016年 油彩 エマルジョンキャンバス 90×90cm)の細部を写した画像とともに述べたことがある。
ちなみに、この「pieta」は、海景を描いたターナーやホイッスラーを想いおこさせる。

馬場健太郎の最近のすぐれた絵画のなかでも、とりわけ高い成果をうみだしている「ハルガスミ」は、固く閉じた冬の大地が緩やかに呼吸を取り戻す初春のかすかな吐息を感じさせないだろうか。

おぼろに輝く光が、物質である大地、すなわち油絵の具でおおわれた画面の奥から染み出し、立ち上ってくる気配がとらえられているように思えてくる。

ちょうど、今日、3月10日あたりの木の芽時の雰囲気だ。翳りを帯びていながら、はなやごうとする気分の予兆ではないだろうか。

だから、画面を見ていると自分の外側に向かう視線と、自分の内側に内向していく視線との葛藤が起こる。わたしは、カオスモスの運動の渦中に巻きこまれていく。

こうした馬場健太郎の絵画がもたらす経験は、そこにあるなにかを見ているというよりも、目を閉じて瞼の裏の暗闇を見ている感じがする。
目を閉じて、しかも目を凝らすと、瞼の裏の暗闇は、わたしの体中に浸透して広がりながらわたしを包みこむ。

小説「死霊」を書いた作家・評論家の埴谷雄高(はにや ゆたか)は、第二次世界大戦のある時期、牢獄に拘束されていたときに、目を閉じて、閉じた目の瞼を上から押さえ、燦めくものを眺めて遊んでいたと書いている。
身体は束縛されていても意識や想像は自由だ。吉本隆明は、無から生じるそうしたイメージを「純粋視覚」と名づけた(未来社から出版された埴谷雄高評論集の吉本隆明の解説)。

 

馬場健太郎の絵画がもたらす経験は、吉本隆明が名づけた「純粋視覚」の経験に似ていないだろうか。

いま、ここで、絵画を見ている。にもかかわらず、それとは異なる自分の想像の世界に浸っているような気分になる。とりとめのない画面の深みから現れるかすかな燦めきやおぼろげな光の漂いは、未来の予兆とか過去の記憶の再生だと思えてくる。

対象に視線を注いでいるときは、想像力は働かない。対象から目をそらしたときにイメージは現れる。哲学者サルトルのよく知られた想像力の考察だ。

 

馬場健太郎の絵画は、目をそらさないで、いま、ここで、絵画を見ているにもかかわらず、「いま」でもなく、「ここ」でもないイメージが、「いま」と「ここ」に重なる。見えている絵画が限りなく見えなくなってしまう。
見えることの限界で、予兆や記憶に似たなにかが出現するのだ。見えることの限界が突破されると見えなくなる。
そうすると、見えることで成り立っている絵画も消滅せざるをえない。馬場健太郎の絵画は見えることと見えないこととのギリギリの場所で成立している。

 

2016年秋のティル・ナ・ノーグギャラリーでの展覧会のタイトル「Scences Beyond」は「向こう側の光景」といった意味だ。
色彩と形態が見える「こちら側」のコスモスとしての光景を越えた、色彩や形態が崩壊して見えなくなった「向こう側」のカオスなのかも知れない。

*この文は、東京、世田谷区のティル・ナ・ノーグギャラリーで2016年10月8日から10月30日に開催された馬場健太郎「Scences Beyond」展に際して書いたわたしのテキストをもとにして、一部分書き直したものです。(はやみ たかし)

 

 

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