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見えることの限界 ー馬場健太郎、ティル・ナ・ノーグギャラリー個展

March 27, 2017

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見えることの限界

画面の周縁から描く。だから、焦点をあわせる中心ができない。これが、馬場健太郎の絵画に一貫して見られる特徴だ。キャリアの最初のころの「FEFE NAA EFE」(1994年)では、多数多様な色彩の線が縦横に交差している。線が繰り返されて画面全体が一つになろうとしている。見る者に焦点をあわさせない。とらえどころがないのだ。だから、絵画が見る者の視野を一挙におおい尽くしてしまう。

 

2年後の絵画では、1994年の「三つの窓」でオールオーヴァーに展開されている線に秩序をあたえていたような矩形はなくなる。色彩が融合し、線が消えた初期の秀作「黄色い太陽」が描かれたのは1996年だ。2年間で、色彩と線の絵画から、色彩や形態を判別できないフィールドの絵画へと移行した。線を画面の横に並べて繰り返して描くことから、画面の上下に重ねて描くことへの展開でもあった。作家としての絵画の独自性が、急速にできあがっていることに驚かされる。それにともなって、とらえどころのなさや、見る者の視野をおおい尽くす特徴は、さらに強くなっている。

 

色彩と形態は絵画をかたちづくる基本だ。画家は描くことによって色彩と形態をコントロールする。色彩と形態は絵画の基本であると同時に、目に見えるものの基本でもあるからだ。けれども、馬場健太郎は、区別されれば異なる色彩として認識できる色彩を融合させ、形態に展開するはずの線を消してしまう。
 

 

2010年の正方形の絵画「時 天」シリーズが典型的だ。色彩と形態は混沌として、とりとめのない深みが見る者の視野をおおう。そこに、かすかな燦めきや、おぼろげな光の漂いが現れる。融合させられたり消されたりした色彩や形態の亡霊だろうか。それらを見ていると、そこにあるなにかを見ているというよりも、目を閉じて瞼の裏の暗闇を見ている感じがする。目を閉じて、しかも目を凝らすと、瞼の裏の暗闇は、わたしの体中に浸透して広がりながらわたしを包みこむ。

第二次世界大戦のある時期、牢獄に拘束されていた埴谷雄高は、目を閉じて、閉じた目の瞼を上から押さえ、燦めくものを眺めて遊んでいたと述べている。身体は束縛されていても意識や想像は自由なのだ。吉本隆明は、無から生じるそうしたイメージを「純粋視覚」と名づけた。

 

馬場健太郎の絵画がもたらす経験は、吉本隆明が名づけた「純粋視覚」の経験に似ていないだろうか。

いま、ここで、絵画を見ている。にもかかわらず、それとは異なる自分の想像の世界に浸っているような気分になる。とりとめのない深みに現れるかすかな燦めきやおぼろげな光の漂いは、未来の予兆とか過去の記憶の再生だと思えてくる。

 

対象に視線を注いでいるときは、想像力は働かない。対象から目をそらしたときにイメージは現れる。哲学者サルトルのよく知られた想像力の考察だ。馬場健太郎の絵画は、目をそらさないで、いま、ここで、絵画を見ているにもかかわらず、「いま」でもなく、「ここ」でもないイメージが、「いま」と「ここ」に重なる。見えている絵画が限りなく見えなくなってしまう。見えることの限界で、予兆や記憶に似たなにかが出現するのだ。見えることの限界が突破されると見えなくなる。そうすると、見えることで成り立っている絵画も消滅せざるをえない。馬場健太郎の絵画は見えることと見えないこととのギリギリの場所で成立している。

 

展覧会のタイトル「Scences Beyond」は「向こう側の光景」といった意味だ。色彩と形態が見える「こちら側」の光景を越えた、色彩や形態が崩壊して見えなくなった「向こう側」のカオスなのかも知れない。

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